部活の延長線上に甲子園という大きな舞台があり、そこに若者が立ったときに、本人も想像できなかった大きな飛躍が待っている。それが高校野球としてのスポーツの力。だからこそ、高野連は常に生徒たちの甲子園を守るために向き合ってきた。
「自ら姿勢を正す」という考え方が重要であり、高野連にはそれが 脈々と受け継がれています。これは、「スポーツ本来の姿」を守るために、どういう土台を作るのかという基本の話だと思っています。
―半世紀に渡って高野連での活動をされてきたわけですが、まずは振り返ってみて如何ですか?
高校野球大会が創設されて100 年、そして高野連が創立されて70 年、その歴史の中の50 年以上にも渡り携わってきたわけですけど、高校野球の歴史に残るような様々な改革に立ち会わせさせて頂き、非常に内容が濃かったです。そして何よりも多くの人脈を得られたことが一番の財産になりました。だいぶんマスコミに叩かれたりもしましたけど(笑)、そういうことも含めて、ほんとによき半生だったかなと思います。
―はじめた当初と今では何が一番変わりましたか?
生徒(選手)たち自身の想いや、指導者の熱意なんかは、昔も今も変わらないと思います。でも高校野球を取り巻く環境は随分変わりました。当然その中で我々も変わらなければいけない側面もありましたが、それ以上に、変わらずここ(甲子園大会とそれに連なる地方大会)を守りたいという想いが強く、そのバランスは難しかったですね。高野連は頭が固いってよく言われますしね(笑)。だけど僕は、変えていくよりも、守り抜く方が何倍も難しいと思うんです。高校野球というのは、要は部活です。そして部活動の一番の課題は、勉強との両立。それは普遍のことで、学校で部活動が始まってから今日まで、生徒たちは常に悩んでいるんです。ここでスポーツの力がどう働くか、プラスなのかマイナスなのか。つまり、スポーツの良さもある一方、弊害も同時にあります。しかし、何よりも大きいのは、部活の延長線上に甲子園という大きな舞台があって、そこに若者が立ったときに、指導者でも本人でも想像できなかった大きな飛躍が待っているということなんです。そういう舞台があるからこそ、とんでもないエネルギーが出て成長出来る。それが高校野球としてのスポーツの力だと思います。だからこそ、高野連は常に生徒たちの甲子園を守るために向き合ってきました。
―つまり高校野球は教育との結びつきが非常に強いということですね。
日本の野球事始めは明治5(1872)年なんです。明治政府がアメリカからホーレス・ウィルソンというお雇い外国人教師を招き、彼が学生たちに野球を教えたのが最初です。ウィルソン先生はなぜ野球を教えたか。当時、明治政府からの大号令は、とにかく欧米列強に負けない日本にするために、急ピッチで勉強せよと。でも、学生たちの顔を見ていたら、青白い顔で体格も貧弱。そんなことでは自分が教える勉強にはついてこれないから、まず身体を作れと。「諸君表にでよ、ベースボールを教える」。それが野球だったんです。つまり日本の野球というのは、遊びではなく、勉強するための身体を作ることが目的でした。それが最初なんです。プロから始まったわけではなく、学生からなんです。プロ野球が出来るのは昭和10年ですから、それまでのおよそ70年間は教育現場の中で学生野球として育っていきました。ですから、アメリカの「楽しむベースボール」とは本質が違い、やはり勉強と部活の両立ということが、歴史背景からも見ても分かりますよね。
―「守る難しさ」というお話がありましたが、そこで重要になることって何でしたか?
昭和7(1932)年に文部省が学生野球の統制と健全化を目的として野球統制令を発令しました。文部省が当時、学生野球に対して懸念していたことは、例えば授業そっちのけで試合ばっかりしているとか、人気選手のプロマイドが売られている実態とか、学生野球が興行化しているのは如何なものかということでした。このままではいけないということで、中央の統括団体を作ってそこでコントロールさせるべきだという話もあがりましたが、当時の野球に関わる人たちは、自分たちがやっていることは自分たちで自制できる、統括する組織を作る必要はないと反発しました。それならば、その仕組みが出来るまではということで野球統制令が出来たんです。つまり自分たちの自立がなかったら制約を受けてしまうわけです。なにも文部省が悪いわけではない。目に余るから制限されるんです。今我々が置かれている現在でも、自分たちでしっかりコントロールできなかったら、いずれどこかから制約を受けます。そうなったときに、本来スポーツが持っている大事なものが損なわれるということを忘れてはならないと思います。まず自分たちでやる。だから高野連は全日本大学野球連盟と一緒に日本学生野球協会というのを組織して、これはどこにも加盟していません。その上に上部団体があれば何らかの制約を受けるし、我々本来の姿にはなれないですから。その他に例えば、高校野球の放送は NHK や民放がやっていますけど、高野連は放映料を一切貰っていません。なぜ貰わないか?貰ったら当然制約を受けますよね。ディレクターのOK が出ないと何も進まなくなる。高野連がそういうスポンサーシップを受けなくても自主運営が出来ている、それは何故か。高校野球が一番大切にしている部分を多くの方々が理解してくださり、支援してくださるからなんです。それがなければ守るべきものも守れなくなります。そういう意味ではおそらく世界でも稀有な団体だと思います。制約が悪いわけではありません。しかしその前に、「自ら姿勢を正す」という考え方が重要であり、高野連にはそれが脈々と受け継がれています。これは、「スポーツ本来の姿」を守るために、どういう土台を作るのかという基本の話だと思っています。
勝ったときよりも負けたときの方が学ぶことが多い。そこをしっかりサポートするのが指導者の力なのだと思います。
―スポーツ界では、指導者の資質についての話がよく話題になりますが、高校野球においては如何でしょう?
高校野球について、トーナメント制は本当に良いのか、つまり一回戦で敗退してしまう加盟校が非常に多いので、例えばリーグ戦形式や敗者復活戦を設けるとか、もう少し考えた方がよいのでは?と言われることがよくあります。もちろん様々な議論はされていますが、現在、高校野球には4000 校近くが加盟しており、会場の手配やスケジュール調整など、各都道府県での大会運営は非常に大変です。ですから、どうしても一発勝負のトーナメント制しかないんですね。しかし、そこで本質的に考えなければいけないのは、勝ったチームにしか意義がないなら、最終的に1 校だけになる。そうではなく「負けたチームにも必ず意義がある」ということなんです。特にスポーツの力という意味で言えば、勝ったときよりも負けたときの方が学ぶことが多いと思います。先程述べたように、4000 校近くが出場しますから、間違いなく 2000 校が一回戦で負けるんです。そこをしっかりサポートするのが指導者の力なのだと思います。
実は、高校野球では、4000校の指導者のうち93%がその学校の教員です。つまり監督の大半がその学校の先生なんですね。そしてそのうち55%の先生が、「いつ高校野球の監督になりたいと思ったか?」というアンケートに対して、「高校時代」と答えています。ということは、おそらく高校時代に教わったときの監督さんが素晴らしかったということですよね。「俺、先生みたいな監督になりたい」、そしたら勉強しないといけない。もちろん大学行って教職もとらないといけない。そしてその後の採用試験も難しい。みんなそういう努力をして、今日、93%の人が監督になっているんです。ということは、指導者としての意欲がとても高いということなんです。そういう指導者の方々に高野連が守られているということは、ものすごく重要なことです。確かに、野球の技術を教えるのに充分かと言われればそうじゃない側面もあるかもしれません。しかし、技術を学ぶためにはその土壌を作っていないとだめですよね。技術指導以外にも、生活面も含めて総合的に生徒が健全に伸びていくことに関わっていくわけですから。技術はその一部に過ぎません。あと、生徒にとっても保護者にとっても、一番重要なのは進路です。進路のことを先生(監督)がしっかりとアドバイスしてくれるということは、実は技術の指導よりも大切です。高校野球が今日こうしてあるのは、そうした多くの先生たちが日々生徒たちと向き合ってくれているからなのだと思います。
余談になりますけど、星陵高校で監督をされていた山下智茂さん。この先生のノックは芸術的なんです。甲子園を目指す指導者を研修する「甲子園塾」で、山下先生がどういうノックをするのかという見本を見せておられます。モデル校の野球部員に「今から俺のノックを受けるものはいるか?」と、そうすると生徒はざわざわしながらも、キャプテンが「僕がいきます!」と。「何本受ける?」って言ったら「 50 本受けます!」。ちょうどマウンドの少し後ろくらいにその主将を立たせて、ノックをはじめました。右に左に、 ゆるいノックでしたから最初の2、3 本は捕れるんです。でもすぐに息切れし、ものの8 本くらいでもう完全に捕れなくなりました。そしたら周りで、 見ている野球部員はひやかしはじめるんですね。・・・実は、山下先生が微妙に球の軌道を外側に外していたからなんです。そして、先生が一度集合をかけます。「50 本受けるって言ったんじゃないんか?まだ8 本やぞ?」。本人は肩で息をしています。そして周りはへらへらしている。そしたら「おい、彼はなんで捕れないんだ??俺はなんで捕れないかわかってるぞ。お前ら、笑ってるだけで誰も彼を応援してなかっただろ!そんなことで甲子園目指すなんてことを言うな!馬鹿者!」とめちゃくちゃ怒るわけです。そして、息も落ち着いてきたキャプテンに「もう一回いけ!」ということで、再開します。そしたら次は、周囲からは全然わからないくらいに、先程より少しだけ軌道を内側に打つんです。・・・今度は全部捕れるんですよね。そして、全員を集めて「なんで捕れたかわかるか?」と聞く。そうすると野球部員は口々に「みんなで気持ちを一つにしたからです!」 と言う・・・もうこれは手品ですよね。やはり野球部員達を預かり、惹きつけていくためには、指導者にそれぞれ何か独特のコミュニケーション方法がありますね。それによって指導者と部員との一体感は出ます。部員にとっては、指導者が自分を常に見てくれている、理解してくれているということがもの凄く励みになります。それはまさにスポーツの力だと思います。ちなみに、現在、100 人以上部員がいる学校も結構あるんですけど、そうすると殆どの人がレギュラーになれないですよね?でも辞めないんです。この先も母数としての生徒の減少は止められません。でも一つ出来ることがある。それは入部したら辞めさせないこと。高野連のホームページには部員の継続率を出しているんですけど、最初にとりはじめた昭 和57 年ころは85%くらいですが、今は92%くらいなんです。これはもの凄い力です。もちろん生徒たちの頑張りもありますが、何よりも指導者の努力に尽きると思います。
「21 世紀枠」を設けて十数年、選ばれた学校は、勝ち負けに関係なく、アルプス席はいつも超満員ですよ、どのチームも。
―「21 世紀枠」という高校野球史に残る大きな制度改革もされてこられましたが。
そうですね。「21 世紀枠」とは選抜高等学校野球大会(センバツ)の出場枠の一つです。 ご存じのように夏の大会は各県代表の優勝校が出場します。それに対してセンバツは、各地区の秋季大会の結果などから選考委員が出場校を決めます。それに加えて、その年の特別枠として、どの都道府県にもチャンスを与えられるような枠が「21 世紀枠」なんです。その制度を決める際、ノンフィクション作家の佐山和夫さんとお話をする機会がありました。佐山さんは英語の教師をされていた経験もございましたので、「先生、教師冥利につきることって何ですか?」という質問をしたんです。すると「熱心に授業を受けているんだけど、なかなか成績があがらない生徒っていますよね。そういう生徒の背中をちょっと押してあげることで、急劇に成長することがある。そういうことが出来たとき。はとても嬉しいですね」と言われたんです。先程も話ましたが、高校野球というのは部活と勉強の両立が一番大事なので、じゃあ先生がおっしゃるような「教師冥利につきること」とは、高校野球に置き換えたらどういうことが考えられるだろうかと思ったんです。そうすると、単に野球が上手だということだけではなく、まずは野球部の活動がその学校全体に良い影響を与えているということが大事ではないかと。もちろん大会で一定の成績以上という対象範囲はあるにせよ、例えば学校のマラソン大会や学校行事でも、野球部が率先して頑張っているとか。つまりは野球部の活動がその学校全体を良くしているケース。あとは、地域の方からもその学校の野球部の評判が良かったり、それから、恵まれない環境の中でももの凄く頑張っているとか。頑張っているんだけど、いつも準決勝や準々決勝で強豪校と当たって惜敗が続いているとか。こういう学校を評価することで、頑張っている背中を押すことが実現出来ないかって思ったんですよ。仕組みとしては、9 地区からの推薦なのですが、その前には各都道府県からの推薦があります。つまり甲子園に出るということも大事ですけど、まずそういう枠に推薦してもらうということが学校としても励みになりますよね。「21 世紀枠」を設けて十数年、そういう基準にしたからこそ、選ばれた学校は、勝ち負けに関係なく、アルプス席はいつも超満員ですよ、どのチームも。
高野連がここまでしてでもセンバツを開催しようとしているということだから、全て信用します。」・・・これまで自制しながら厳しくやってきたことが全て報われた気がして、・・・涙が出ました。
―とにかく全てが生徒たちのために、高校野球そして甲子園を守るということなんですね。
そういう意味で、もう一つお話しておきたいのが、1995 年の阪神大震災の時、何故センバツ大会を開催することが出来たのか、ということです。1 月17 日、センバツまであと2 ヶ月というところなんですけど、被災地のど真ん中ですよね。僕は自分の家も倒壊したのを目の当たりにしているので、感覚として5 年くらいは 甲子園で出来ないなと思いました。でも、毎日新聞社の方は、全国の皆さんからの声も聞いた上で、何とか開催できないものかと。そうやって議論が平行する中、1 月の下旬に、朝日新聞の当時の運動部長の遠藤靖夫さんという方とお話をする機会があり・・・、いきなりおっしゃったのが「田名部くん、モスクワオリンピックを知っているか?当時のJOC委員長・柴田勝治さんにお会いするたび、私にこういうお話をしてくださる。〈キミたちにオリンピックは無い〉と選手に宣言したときの辛さは一生の悔いであり、未だに忘れられないと。君は、牧野さん(当時の高野連会長)に同じことを(選手たちに)言わせるのか?」と。確かに難しい。でも、まだ2ヵ月ある。やりもしないうちから諦めると悔いが残ると、その言葉をお聞きして思いました。そこから被災地の復興の妨げにならないような、様々な対策を考えていきました。その時によかったことは、誰からも制約を受けず自主的に全て決めていける体制にしていたことで、一切の外圧が働かなかったことです。例えば、NHK が放映するかどうかは、我々にとっては問題じゃないんです。選手たちが、余震が懸念される中試合を出来る環境を確保できるか、その次に交通網が遮断された状況で観客を誘導することが出来るか、そして何より被災地に迷惑をかけない方法として何ができるか、そのことだけに集中して、あらゆる角度から考えることが出来ました。そしてようやく計画書を完成させ、兵庫県警交通規制課に提出しに行ったのですが、その時に担当官がおっしゃって頂いた言葉は未だに忘れられません・・・。「本官は、高野連がこれまでに、身内のささいな不祥事でも厳しく処分して、ここまで甲子園を守り続けてきたということを知っています。その高野連がここまでしてでもセンバツを開催しようとしているということだから、全て信用します。但し、本件は県警だけで決められない。こちらから連絡は入れておくので、すぐに警察庁にも行って了解をとってきてください」と。・・・つまりこれまで自制しながら厳しくやってきたことが全て報われた気がして、・・・涙が出ましたね。確かに長い歴史の中で、処分が厳しすぎると言われることも沢山ありました。でも、自らを律しないとダメだと思ってずっとやってきました。冒頭でも話ましたが、そうじゃないと、我々本来の姿を維持できないですから。