スポーツをやっている時間の中で、どんな経験をしたのか、どんな言葉をかけられたのかということが、とても大きな影響をもたらす。だからこそ我々指導者は、子供たちにかける言葉、ひと言ひと言にも覚悟を持っていなくてはいけない。
ある子供が僕に聞いてきました。「どうやったらそんなに早く泳げるの?」って。この言葉を聞いたとき、雷に打たれたように「これだ!」って気付いたんです。まさにこれがスポーツを教えるということなんだって。
―競技者として、そして水中ピエロとして、更に今はスイミングスクールの代表として、様々な活動をされてこられた不破さんですが、どういう経緯で歩まれてきたのかを今日はお聞きしたいと思ってます。
まずは自分自身でスポーツをやっていた、つまり競技者としてですね。平泳ぎで当時の日本記録を出し、世界ランキングは4位でした。オリンピックにも3度挑戦したんですけど、それは全て失敗して、1度も出場することは出来なかったのですが。実は今回のインタビューのお話を頂いた武藤先生とは中学3年生の時にお会いしたんです。「水泳選手だけになるな。本を読め。恋愛をしろ。映画を観ろ。まずスポーツ選手である前に人であれ。中学3年生ならそれらしい生き方をしなさい。」そういうことを代表合宿のときに皆さんの前でおっしゃられていたんです。それって当たり前のことかもしれないですが、当時は、天才だ、お前は特別だと言って、褒められる環境の中だけで育ってきた僕にとっては本当に新鮮でインパクトのある言葉でした。でもそれ以降、意識して自分なりに努力してみてはいたんですけど、ずっと生意気なままでしたね。それに対して武藤先生はいつも心配をしてくれていました。後でお話しますが、水中ピエロという仕事をはじめるときに偶然お会いしたんですけど、その時に告白して頂いたんです「あの時のお前は嫌いだった」って(笑)。もっと言えば可哀そうだったと。「水泳というのは凄く広い世界観を持っている。泳いでもいいし、飛び込んでもいいし、踊ってもいい。お年寄りのリハビリにもなる。そういう沢山の可能性がある中で、お前は、水泳、競泳、平泳ぎ、100 メートル・・・、ここだけに全てをかけている。そんな小さい世界で必死にあがいて見栄を張って生きている。こんな子供に誰がしたんだと思って、ずっと悲しかった。でも、そんな不破くんが、ピエロになって笑われ者として普及しようとしている、これは応援するよ。」って言ってもらえたんです。
―競技を引退し、次の道に進むことになったきっかけはどのようなことだったんですか?
競技を辞めようと思ったのは、もう勝てないと思ったからなんです。僕の作った日本記録が林享くんに破られまして、更にその記録を北島康介くんが破ることになるんですけど。林享くんが登場したときに、完全にレース展開も違うし、フォームも身体つきも何もかもがこれまでとは変わっていたんです。そして次にいくわけですけど、その時の心境としては、ワクワクしていました。引退すること自体は当然ながら悔しさはありました。でもそれと同時に、やっと好きなことが出来るという嬉しさがあったんです。もともとクリエイティブなことが好きで、舞台美術などにも興味があったので、高校や大学への進学の時も一度は美術系の学校を志望してはみたんですけど、何をするにしても「水泳を辞めてからやれ」って言われてきましたので、ようやくその道に進めるという感じでしたね。ただ、いざ自由だ!となったら、今度はどうしてよいのか分からなかったんです。それで色んな方に相談を持ちかけたりするんですけど、僕が話せたことと言えば、「水泳の日本記録保持者でした。今は舞台美術がやりたいんです。でも入口がわかりません。なんとかしてください」ということだけでした。ある方からはもの凄く怒られました。ナメるなと。人生ではじめて否定されたんです。元日本記録保持者だろうが、世界ランクだろうが関係ない。これが社会かと痛感しましたね。
全てを否定され何もすることがなく、かなり落ち込んでいたある時、電車の中で目にとまったのが、青年海外協力隊のポスターだったんです。こういうところに行ったら何か出来るかもしれないなと思い、とにかく資料を取り寄せました。様々な職種が募集されていたのですが、当然経験がないのでどれにも当てはまらない。唯一当てはまったのが「水泳の先生」だったんです。正直、また水泳か・・・と思いました。でも、知らない土地で、知らない言葉を使って、知らない子供達に水泳を教えている自分がちょっと面白そうだなと。それで受験をして、協力隊員になったんです。協力隊員になって、グアテマラという中米の国に行くことになりました。そしていよいよ水泳を教えるということで、はじめてプールに行ったんですけど、水が張ってないんです。それどころか、ヘドロなんです。つまり全く仕事が出来る環境じゃない。これでは仕事が出来ないから、掃除をお願いしますと現地の担当者に言ったんですけど、全く何もしてくれないんです。そこで気付いたんです。そうか、これは俺がやらなきゃいけないんだって。
最終的に水道管をひねって水を出せる状態にまでになったのが、着任して2ヶ月くらい経ったときでした。やっと水泳の練習が出来ることになったので、子供達に水泳をやらないかって声を掛け、まず10人集めました。当然水泳の指導方法は自分の経験を通して知っているので、それを子供たちにやらせたんですが・・・、翌日からどんどん来なくなったんです。単純に楽しくなかったんでしょうね。残り2人になったとき、もうこれでは練習にならないから、今日は遊ぼうと言って、プールで鬼ごっこをしました。次の日も、その次の日も。そうやって毎日遊んでいたら、辞めた子たちがだんだん戻ってきたんです、何してるの?って。その後も、水の中で野球したり、サッカーしたり、シンクロのマネ事をしたり。どんな遊びをしても僕は絶対に負けないんです。鬼ごっこをしても、鬼になったら絶対に捕まえるし、鬼には絶対に捕まらない。だって水泳の日本記録保持者ですから(笑)。そうするとある子が僕に聞いてきました。「どうやったらそんなに早く泳げるの?」って。この言葉を聞いたとき、雷に打たれたように「これだ!」って気付いたんです。本誌でも「スポーツの指導」というテーマで様々な方がお話されていますが、僕はこの言葉でその答えを見出したんです。どうやったらその遊びをもっと楽しめるのか。そのためにトレーニングしたり、コーチがいてコツを教えてくれたり、まさにこれがスポーツを教えるということなんだって。そして、もう一つ気付いたことは、遊びも練習も、プログラムとしては提供できても、やはり面白い大人が提供しないと楽しくはならないと思ったんです。例えばはじめて来た子にはまずは笑顔になってもらうためにジョークを言ってみたり、そうやって気持ちを柔らかくしてから練習に入るということを心掛けていました。そういう経験もしたことで、2年間の協力隊の活動が終わったあとに、もっとそういう方面で仕事がしたいなと思ったんです。
オリンピックに行きそこなった後悔だらけの元平泳ぎ日本記録保持者、そんな過去のプロフィールとは一切関係なく、目の前のお客さんが自分の水中ピエロという芸で大喜びしてくれた。「これだ!」って心から思いましたね。
舞台の道を志してから、楽しませるとはどういうことかを追及していった結果、一番衝撃を受けたのがピエロのパフォーマンスを観た時だったんです。ピエロって一切しゃべらないのに言葉が溢れてくるし、大爆笑をとれる。これは究極のカタチじゃないかなって思いました。それですぐに、ピエロの養成所に入って勉強することにしたんです。そこでの自己紹介のときに「元平泳ぎの日本記録保持者です」と、初めて言いませんでした。そしてついにピエロになるんですけど、まあ仕事が無いんですよ(笑)。まだ、大道芸が出来るピエロはお祭りやイベントの仕事があるんですけど、僕には何も芸が無い。どうしようかと思ったときに、一つだけ芸があったんです。水泳です。ピエロが水泳をしたらどうなるんだろって考えたらネタが色々出てきました。水中ピエロです。例えば、水泳をやっている人は分かると思うんですけど、冬場のシャワーって冷たくて嫌なんですけど、ピエロだったらそこで傘をさしたり(笑)くだらないんですけど、一人でニヤニヤしながら沢山考えました。
水中ピエロとしての初ステージは協力隊のときの仲間からご縁を頂いたんですけど、ある養護学校に新設されるプールの竣工式、そこでのパフォーマンスでした。初めてといえど、普通のピエロとしては何度か現場を経験させて頂いていたので、ピエロが登場すると子供たちがどのようなリアクションをしてくれるのかというイメージはあったんです。手を振ってくれたり、歓声を上げてくれたり・・・、でもその時は違いました。ひとことで言うとノーリアクションです。何故かと言うと、車椅子だったりベッドだったり、つまり特別養護学校なんで、見たことのない姿をした子供たちがそこにいるわけです。ショーが始まっても、声を出してくれてはいても、それが喜んでくれているのかもわからなく、経験したことのない不安の中、20 分のステージを終えました。ショーのあと、子供たちと一緒に給食を食べていってくださいと誘って頂いたんです。メイクも取っているんでさっきのピエロではないんですね。すると隣に座った子が、今さっきプールで起きた出来事を必死で語ってくれたんです。そして先生が「今はメイクしてないですけど、さっきのピエロさんですよ」って言ったら、みんなが一斉に集まってきてくれて、中には御礼にということで一生懸命折り紙を折ってくれる子がいたりとか、とにかくすごいリアクションだったんです。僕はその日は無償で来ていたんですけど、帰り際に、みんなで集めたんで移動費の足しにということで、小銭やお札が入った袋と手紙を頂いたんです。つまり大道芸人と一緒ですよね。これが一番のご褒美なんです。その手紙を帰りの新幹線の中で読みながら強く想いました。「俺はこれをやっていきたい」。オリンピックに行きそこなった後悔だらけの元平泳ぎ日本記録保持者、そんな過去のプロフィールとは一切関係なく、目の前のお客さんが自分の水中ピエロという芸で大喜びしてくれた。「これだ!」って心から思いましたね。
このエピソードを後日、武藤先生にお話しする機会がありました。すると「面白い。あのお前がそういうことをしている、素晴らしい。あのお前がやっているからこそ意味がある」と言って頂きました。更に、「不破央」という僕の名前について、「水というのは凍らせない限り切れないもの。つまり破れない。そんな水の真ん中、つまり中央で生きてるよね」と。その言葉を頂き、これを一生の仕事にしようと思いました。水の真ん中で生きている。生きるべきだったんだと。その後、これまで20 年間、全国で1100 箇所、ステージ数で言うと1400 回、この水中パフォーマンスショーを続けてきました。
「スポーツの力」って何だろうということを、今までの人生の中で一番考えている時間が今なんです。スポーツの力って素晴らしい力だし、皆がスポーツに対する期待が高いからこそ悩まされるんでしょうね。
―2018 年の夏からは、ご自身のスイミングスクールを立ち上げられたんですよね。
はい、「トゥリトリススイミング有明」というスイミングスクールの代表をやっています。これまでは自分でプールを持っていなかったんですけど、今はここに城を構え、自分たちで子どもを育てているんです。有明という街はまだ新しいので、大きいお子さんが少なく、だいたい3 歳~ 小学校2 年生くらいまでの子供たちが殆どです。何の経験もない子供たちがはじめて水に入る怖さや不安をどう解消してあげるか。そしてその不安がとれたら、今度は飛び込んだり危ないことをしてしまうので、どの程度の声の大きさや、わかりやすい言葉で教えていくか、そういうことを日々他の先生と話し合い試行錯誤しながらもチャレンジしています。今までにない難しさを感じているところは、我々が子供たちにこういうことを伝えていきたいという想いと、親御さんが期待されることに、ズレが生じてしまうケースがあるということですね。我々の考え方としては、まだまだ小さい子供たちなので、水の中での楽しさをまず体験してもらい、「どうやったら早く泳げるようになるの?」という言葉が出てきてからスイミングの方にステップアップする、というのが理想ではあるんですけど。親御さんから求められることの多くは、「他の子に負けないように」といった競争の要素がどうしても強かったりして、なかなか賛同を頂くことは難しいですね。実際、週に1 回、遊びのクラス「遊遊コース」も設けているんですけど、会員数は全体の1%です。シンクロをベースにした「ダンススイミングコース」に関しても全体の2%です。これまでお話させて頂いたように僕の人生は三部構成になっていて、第一部は競技者。自分自身が主人公で、どうすれば速く泳げるかを自分の努力を積み上げることで成し遂げてきました。第二部は水中ピエロ。自分のパフォーマンスによって、目の前にいるお客さんを楽しませるということだけを考えてきました。そして第三部はスイミングスクールの経営者。指導者として目の前にいる子供たちを楽しませることが出来ても、その向こうにいる親御さんにも満足してもらわないと、正直経営が成り立たない。そうなると社員に苦労をさせてしまいます。そういう意味で、実は「スポーツの力」って何だろうということを、今までの人生の中で一番考えている時間が今なんです。水泳という僕が培ってきたスポーツの力を誰に向けて発信していくべきなのか。一度は答えが出ていたはずなんですけど、それを今全力で否定しにかかっているところです。間違っていたんじゃないかなって、反省の毎日です。スポーツの力って素晴らしい力だし、皆がスポーツに対する期待が高いからこそ悩まされるんでしょうね。ただ、そんな中でもはっきりと分かっていることは、子供たちにとってスポーツとは、人生を左右する大きな要素になり得るものだということです。スポーツをやっている時間の中で、どんな経験をしたのか、どんな言葉をかけられたのかということが、とても大きな影響をもたらす。良くも悪くもどっちの方向にも連れていけるんです。だからこそ我々指導者は、子供たちにかける言葉、ひと言ひと言にも覚悟を持っていなくてはいけないと思っています。