スポーツの力とは、人間の力であり、人間が生きていく為の象徴だと考えています。
「止まると終わる。動くと始まる。」今できていることを明日もできるように。そのためには動かないといけないんです。
―まず、島田先生が長きに渡って整形外科医の道を歩まれてきた中で、大きく影響を受けた出来事ってございますか?
整形外科の道に進んで暫くした後、今から 30 年ほど前になりますが、僕の恩師である市川宣恭先生に出会ったことが一番大きかったです。当時は「痛かったら安静にしておけ」、そういう治療が多かった中、ダイナミック運動療法という治療法を実践されておられました。その考え方に凄く影響を受けたんです。それと同時に、市川先生は、学生時代にプロボクサーであったり、柔道も6段だったりと、とにかく武勇伝も沢山あって人間的にも凄く魅力的な方でした。沢山ある市川先生とのエピソードの中で、今でも僕の考え方の原点になっていて、先生にとても感謝していることがあって・・・長居(大阪)にある 身体障害スポーツセンター、当時、そこで身体障害者の方々がやっている柔道クラブに連れて行ってもらっていたんですよ。私は五体満足ですから、 はじめは障害を持っている方に対して、どこか一歩引いてたんです。付き合い方がわからないというか・・・。例えば大腿切断された方、つまり片脚が無い方と柔道をするんです。勝つ為には反対の脚を蹴ったらいいだけですよね。・・・それができないんです。一本しか無い脚を蹴るということがどうしてもできない。どこかルール違反のような気がして遠慮してしまうんです。そしてあるとき、その方に倒されて、寝技になったときにびっくりしたんです。上半身の強さがとんでもなく、完璧に抑えられて全く動けなかった。その時「この野郎!」と思って、初めて脚を蹴ることができたんです。このことがきっかけで、本当に彼らの仲間入りができたなと思いました。いつも柔道が終わったあと、市川先生が中華料理屋にみんなを連れていってくれていたんですけど、「なんでお前みたいな片脚一本のやつに負けるんやろな(笑)」っていう会話がようやくできるようになったんです。その経験は自分の中では大きかったですね。
―今現在、患者さんと向き合う姿勢への基盤になっているということですね?
そうですね。恰好つけて言えば、患者さんへのリスペクトというか。「自分が正常で彼らが欠陥のある人間」という風に言ってしまえば、それは上下の関係という意味ですよね。その経験以前は、正直どこかでそう思っていたんだと思います。だから脚を蹴ることができなかった。でもね、例えば視力障害を持っている方は、僕らでは到底及ばない〈聴く力〉を持っている。片脚が無い方の上半身がどれだけ凄いか。そういうことを目の当たりにすると、「なんやお互いイーブンやん」と。それに気付けたのは非常に大きい。逆に僕らよりも(彼らは)苦労したことで、一段上にいった人というか。そういうリスペクトの気持ちが生れましたね。そうすると、今までだったら聞き辛かったこともどんどん聞けるようになり、それぞれの人が障害とどう向き合ってきたかが分かるようになってきたんです。だからそれ以降、彼らは僕の師匠ですよ。それって、どんな病気の方々も同じだと思うんです。何かの病気によって〈できないこと〉を抱えていて、それを何とかしたいと思っている。
例えば、脊髄小脳変性症という病気があります。この病気は、ふらつくし、しゃべりにくくなるし、食べ物などが飲み込みにくくなる。最後は呼吸もしにくくなるので、人工呼吸器をつけないと生命維持が難しくなるという、非常に厳しい病気で、今の医学では対応することができない病気なんですね。そういう方々の会に僕は顧問として入っているんですけど、何故そこに自分が身を置いたかというと、やはり彼らから学びたいという気持ちがあるからなんです。彼らにいつも言うのは、「やらしい病気やな、どんどん力も奪っていくし。せやけどな、そこで終わったら、ほんまに終わりやで。だから動くのを止めないように」と。
僕が大事にしている言葉は「止まると終わる。動くと始まる。」それは全てに言えるなと思います。特に難病の方はどうしてもめげてしまいます。だって毎日何かができなくなるんですもん。僕ら医者は無力ですよね、どうしようもない。でも、今できていることを明日もできるように。そのためには動かないといけないんです。それって、スポーツで自己新記録を出そうとしている選手たちと一緒だと思いませんか?くじけそうになると思うけど、「あなたがやりたいことは 何やったん?」とか「今できていることをこれからもやろう!」とか、全て一緒の話なんですよ。今から 30 年前の日本なんて寝たきり大国だったんです。僕が親父の病院(当時は結核病院)を継いだころ、ある人から聞いたのは、「いいか、医療経営というのは、年寄りを死ぬまで預かること。入院させて寝かせて点滴しろ、そしたら 3 日もすれば寝たきりになる。それで経営は 成り立つ」と。そういうことを医者が平気で言っていた時代なんです。非人間的な工場のような。僕はそれが許せなかった。その後、老人保健法ができて、1997 年に「悠々亭」という介護老人保健施設を創ったんですけど、それはやはり、元気なお年寄りを作りたいと思ったからなんです。考え方は、とにかく「動け!」ですよ。当時は老健施設にトレーナーがいることは珍しかったんですけど積極的に取り入れて、集団体操などをはじめましたね。今は国としてそういうことを推奨するようになりましたけど、それでも医者によっては、どこか悪かったら「大事にし、寝とき」という人もいます。皆さんも思わないですか?入院すると、動いたら怒られるって雰囲気があるでしょ?あれはおかしいと思うんです。動く場所を奪うのが病院、こうなってしまうことは絶対にダメというのが僕の考え方です。
何で困っているかを聞かないで、どうやってその人を健康にできるんだ?と思うんです。目標を本人から引き出していない診療なんて全く意味がないと思う。
―「動く」ということだったりアクティブなイメージは、しまだ病院の内装などにも表れているなと感じました。病院なんだけど気持ちが沈むようなイメージはなく、明るくて活発。ジムに来ているような印象を受けました。
そう思ってもらえるなら、僕の考え方が伝わっているんだと思います。身体が痛むということ自体は、やはりネガティブなことなんですよね。でも「何がしたいの?」「それができるようにならないとね」というのが考え方の基本。その目的を叶えるためには下を向いていたらダメですからね。要するに、人間の力を引き出すのが我々の仕事。でも実際は押し込んでしまうパターンが多いんですよ。相手が大きいから言っても大丈夫だろうと思っていつも言うんですけど(笑)、世の中の大学教授や偉い先生には、上から目線の人が多いですからね。俺の言うこと聞いてたら間違いない、という感じ。でも本来は、患者さんの言うこと聞かないと、我々みたいな仕事は成り立たないんです。例えば、骨折した患者さんがいたとして、骨折したという事実は全てに対して共通。でもその患者さんが、「治ったら何をしたいのか」によって、やることが全然違うんですよ。何かをしたいから治す、それが重要でしょ?つまり痛んだ箇所を治すというのは、その人の人間としての生き方だったり、人生だったり、将来だったり、それに影響するんですよ。痛んだ箇所の修理っていうのは、ほんのその一部分です。
もう少し掘り下げて言うと、「健康」への考え方です。健康というのは一体何なのか。どこかが悪いと健康ではない・・・それは違うと思います。健康の定義は、「自分のやりたいことができている状態」。世間で言われている健康、つまり、どこも悪いところがないというのは、条件であって、それ自体が目的ではないんです。そういう意味でいうと、何に困っているかを患者さんに聞かないで、どうやってその人を健康にできるんだ?と思うんです。目標を本人から引き出していない診療なんて全く意味がないと思う。僕が問診で大事にしているのは、「何をやりたいか」を引き出すこと。
例えば、あるおばあちゃんなんかは、なかなかそういう事を教えてくれなかったんです。でもある時、「実は来月ハワイで孫が結婚するんです。その挙式に着物を着て出席したいんです」と。これなんです。この言葉が出てきたので、あとはスタッフみんなでこの目標をサポートしよう!と。そして、トレーニングをしたり身体の使い方を変えることで良くなる、ということを僕は経験してきていました。例えば、変形性関節症の方が、走りたい、山に登りたいって言うと、普通だったらダメっていうんでしょうけど、「それがしたいんでしょ?だったらやろうよ!」と言うんです。実は僕がこんなにエラそうに言えるのは、ある方のおかげなんですけど・・・、金剛山の錬成会っていって、何回も山に登る会があるんですが、その方は一日に 2 回とか登るんです。それで 1000 回くらい登ったときに痛みを感じはじめ、僕のところに来たんです。レントゲンをとったら
軟骨がすり減っていました。変形性関節症だったんですね。ここで、整形外科医が 10 人いたら 10 人が、山に登るのは止めなさいって言うんです。それが普通かもしれません。でもその時僕は、「やってみよう!あんたはやりたいんやろ?」って言いました。そうすると「はい、私は 3000 回が目標なんです!」と。そこからトレーニングしながら諦めずに続けてみたんです。そしたら、2000 回になり、2500 回になり、ついに 3000 回を達成することができました。その日、僕は嬉しくて花束を渡したんです。今でも毎年 1 月に定期健診のように来てくれるんですけど、僕にとってはその方が先生です。その方の話を聞いて、同じ症状に悩まされている他の患者さんに教えてあげているんです。痛みがあるがために、あなたは何ができないんですか?本当は何がしたいんですか?原因はともかく、できるようになれば解決だよねって。だから運動しましょう!と。多少の痛みがあったって、その人がやりたいことをできるようになれば、それはゴールだと思うんです。
痛みをとるというのは目的じゃなくて手段。その先にある目標の為に「動く」ということを大事にする。そうすれば自ずと顔が上に向く。
―多くのスポーツ選手の治療もされていますが、きっかけはどういった出来事だったのですか?
やはり芦屋学園の比嘉先生との出会いは大きかったです。当時、比嘉先生が羽曳野高校の時代に、教え子が半月板の手術を受けたんですけど、ずっと痛みが残っていた状態だったので僕のところに連れて来られたんです。そこから、しっかりトレーニングを続けて、見事復帰することができたということがありました。そのことがきっかけで、手術だけではなく、リハビリやトレーニングの大事さを比嘉先生にもわかって頂けました。その後、比嘉先生の紹介で沢山の高校生を診させて頂きましたね。でも最初は親御さんの賛同が得られないことが多々ありました。国立病院でも市立病院でもない民間の聞いたこともないような病院で、自分の子どもが 場合によっては手術されるんですからね、不安だったと思います。でも、その状況を救ってくれたのは比嘉先生はじめ、顧問の先生方でした。「ここで手術を受けた子がちゃんと復帰していますよ」って親御さんに言ってくれたんです。それが大きかった。だから医者の力なんてたかがしれてるんですよ。我々がやってきたことを、見てくれている人がいて、かつそれを伝えてくれることで、はじめて信頼されるんです。そうやって、比嘉先生、そして体育の先生を中心に広がっていったんですよ。あとプロのアスリートに関しては、師匠の市川先生の勉強会で知り合ったオリックスのチーフトレーナーをやっていた松元さんから、ある日いきなり「ブーマーを見てくれないか」と(笑)。それがはじめでした。初めてのプロ野球選手の診察があのブーマーですよ、恥ずかしい話、手が震えました(笑)。その次の年には鈴木一朗選手が入団して、何度か診させて頂いたり。それでだんだん度胸もついてきましたね。
―――最後に、島田理事長にとってのスポーツの力とは?
スポーツの力とは、人間の力であり、人間が生きていく為の象徴だと考えています。スポーツという言葉は、置き換えたらある意味「活動」です。人間は動いてなんぼ。たとえ麻痺で手足が動かなくなってしまったとしても、口や目は動くわけですよ。動くってことがとても大事。逆に、動かないということによるストレスは相当なものです。目玉が動くだけでも色々なことが出来る。全ての身体の動きが、つまり力なんだと思います。僕らはそれを保ち、その人が表現していくことを手伝うこと。全てはその人が何をやりたいかが重要なんです。だから私たちの病院には「運動器ケア」という名前を付けました。痛みをとるというのは目的じゃなくて手段。その先にある目標の為に「動く」ということを大事にする。そうすれば自ずと顔が上に向くと思うんです。