私にとってのヒューマンネットワークはスポーツなしでは絶対に語れなかった。苦労したり厳しい状況に追い詰められたこともあるけれども、助けてくれる人が出てきたり、必ず道が拓かれてきた。
――まずは武藤先生の長年に渡るこれまでの様々な活動を振り返ってみて、どういったものでしたでしょうか?
ひとことで言うと「無党派」でしょうね。「無党派の武藤」と半分冗談めかして言っています。それはどういう事かというと、元々私は水泳を通して、スポーツ医学の道を選び整形外科医になり、ご縁があって東京大学の教育学部長も務め、その後日本体育大学にも行きました。その過程で、スポーツ・医療・保健・介護福祉・芸術芸能など様々な事をやってきましたので、多岐に渡る分野をまたぐという意味で「無党派」。 その根元にあるのは「健やかなからだを育む」ということです。それは子ども・大人・高齢者・スポーツ選手・障害のある人たちも含め、 様々な要素を持っている人々の「健やかなからだを育む」ということに集約されると思います。
例えば、整形外科医として、水泳の飛び込み事故での頚椎・頸髄損傷、四肢麻痺とかそういった事故例を集め分析をし、予防するにはどうしたら良いか、リハビリテーションするにはどうしたら良いか考えたり。
”うさぎ跳びは百害あって一利なし“と言い始めたのは我々の研究グループなんですが、間違った訓練やトレーニング法を行えばスポーツそのものが信頼を失ってしまいます。そして子ども達の故障やケガを増やして、場合によると心を傷付けて、本当は伸びる子ども達をとめてしまうという事があります。実際に現場で止めさせるまでに 25年かかりました。名古屋にいた時は疲労骨折を中心とした仕事をやってきて、東京厚生年金病院の整形外科医の時もスポーツ障害を通して、なぜ起きてどう早期発見して治療に結び付けリハビリをさせるか。と同時に、それをベースにして予防を図ることが一番。つまり「予防に勝る治療はない」「健やかなからだを育む」これが 2大テーマですね。子どものスポーツ障害予防、高齢者の転倒予防、オリンピック選手のケガ・故障予防、ドーピングで心身を痛めつけてしまう事がないようにするなど、全てそういう形で集約出来るのではないかと思います。最近手がけている舞台医学(ステージ・メディスン)も同じですね。舞台の上で活躍をしている演劇人・歌舞伎役者・音楽家・バレエダンサーなどがケガ・故障することは多々あるわけですよね。それをどうやったら防ぐことが出来るかというコンディショニングやトレーニング、ストレッチなどはスポーツ選手と全く一緒なのですが、社会全体に認識がないので、それを「舞台医学」という学問領域として概念形成をすることで、社会に啓発することが出来るんです。
私がやってきたのは「健康づくりのプロデューサー&ディレクター」。健やかなからだづくりの為に、企画をし、人やものを集め、お金を集め、シナリオを作り、場合によっては主演・演出もしてきました。
――そのような多岐に渡る活動の原点となった考え方は何だったのでしょうか?
きっかけは 15歳の時に見た、山本周五郎原作・黒澤明監督の名作『赤ひげ』という映画です。こんな素晴らしい芸術作品を作るような映画監督になりたい!と思ったんです。これこそ志望すべき職業人だと。結果的には、刈谷高校時代に医学を志し理系の方へ進みましたが、映画監督にはなれなかったけれども、やっていることは実はよく似ているんです。例えば、東京厚生年金病院で 25年近く客員部長をしていた際、音楽家や演劇人が患者さんとして結構来たんですね。”ここは健康スポーツ外来ですが、良いですか?“と伝えると”どこへ行っても話を聞いてくれないんです“と。そして色々と治療をしているうちに、スポーツ選手と一緒だなと思ったんです。オリンピック選手は舞台の上で活躍する一瞬の為にコンディショニングとか訓練、練習をするわけです。でも歌舞伎役者など舞台の人は、合間に数日休みがあるにしても、ずっとひと月やり続けるんですよね。それはオーバーユースが起こるに決まってるじゃないですか。でも身体活動をしているという認識があまりないんですよ。だからそれは絶対狙い目だなと思いました。それがステージ・メディスンのきっかけです。そして、一緒にやろうよと声をかけ、全国から仲間が集まってきて研究会を立ち上げました。数回研究会をやり実績を積み上げ、それを元に本を作って更に全国へ広げていきました。 日本転倒予防学会を作ったときも一緒ですね。高齢者が転ぶと骨が折れる、頭を打つ、最悪死亡事故が起こる。もちろんそれはみんな知っています。”でもなぜ転ぶんだ?”という追求分析をみんなでしてきたんです。長野県と島根県で厚生労働省の研究班と一緒に研究をしてきた結果見えてきたのが、どうも動脈硬化が進むと転びやすいというデータが出たんですよ。
2年かけて”間違いない。大発見だ!”と思いました。”絶対おもしろいからみんなでやろう、ひょっとしたらノーベル賞いけるかもしれない”とみんなも目が爛々と輝いて議論してたんですね。でも3年目になって、なんのことない、これは運動不足だよと(笑)。運動不足だと動脈硬化指数上がるし、他の病気も起こるし、運動機能・感覚機能も衰える。年齢的に変化もあるからそれは転ぶだろう、当たり前じゃないか。でもそれは生活習慣病と捉える事が出来るのではないか?という事であれば、予防教室を立ち上げられる。そしてそれを企画をして、3年近く準備をして始めたのが1997年12月1日でした。全国で初めて「転倒予防教室」という予防のための教室をつくったんです。その当日に新聞が大きく取り上げてくれ、その翌日に NHKのニュースで取り上げてもらったのかな?だからなんの広告を打たなくても電話が鳴りっぱなしだったんです。予防教室なので保険がきかないため、”コロバナイ”ということで56,871円の自由診療にしたんです。”語呂合わせがおもしろい”というので、新聞テレビラジオに取り上げられた。そういう仕掛けをしました。
つまり、私がやってきたのは「健康づくりのプロデューサー&ディレクター」なんです。健やかなからだづくりの為に、企画をし、人やものを集め、お金を集め、シナリオを作り、場合によっては主演・演出もしてきました。映画監督がやっていることとよく似ていまよね。
「スポーツ」よりも「体育」の方が実は幅が広いと私は思っています。学問的であり、教育性、指導性があるので。
――人が見つけていないテーマ・分野を追求し続けてこられたわけですね。
そうですね。例えば、東京大学の教育学部へ整形外科医が行ったなんて当時としてはありえないんですよ。しかも私は名古屋大学出身なので。東京大学に他の大学から来て、しかも整形外科医が文系の教育学部に行くこと自体が稀有な例でした。しかし、今振り返ってみると教育学部へ行った事で「身体教育」という学問体系が出来ました。体育って「からだをはぐくむ」と読むんですよ。英語だと physical educationで、直訳をすると「身体教育」と訳すべきなんです。もちろん「体育」の方が社会的に馴染みはあるんですが。イメージとすると鉄棒・跳び箱・マラソン・水泳など、技能的に捉えてしまって非常に狭いんですね。でも educationという言葉が入っていることからも、「身体を通した教育」「身体についての教育」と読み解くべきだと私は考えていて、東京大学の仲間と議論をして平成 10年に「体育学講座」を「身体教育学講座」に切り替えました。どこもやってなかったですよ。身体教育学講座は、「からだの理(ことわり)を知る」。つまり、「からだの仕組みや成り立ちなど、機能を知る」「からだ、健康、生命の大切さを知る」「からだを動かすことの楽しさと喜びを知る」というのを3つの教育理念に据えたんです。その中に「スポーツ」はもちろん入ります。スポーツを通してその教育理念が達成されるように、個人の条件に則した適切な良い指導をし、同時にスポーツの持っているパワーや効果を世に広めること。スポーツによって人間形成をすることもその中にフォーカスされるんです。ただ、「スポーツ」よりも「体育」の方が実は幅が広いと私は思っています。学問的であり、教育性、指導性があるし。そういう意味では、「日本体育協会」から「日本スポーツ協会」へと名称が変わってしまったこと自体悪くはないけれども、本来の「体育」が持っていた教育性や指導性が薄らいでしまうと、「スポーツ」が持つ力も場合によっては弱くなるかなとは懸念しています。
私なら体育の授業 45分間全部遊ばせてみると思います。遊びは単に運動技能だけではなくて、人間としての形成力もある。それが「本来のスポーツ」であるという認識を持った上で、小学校の授業の中でぜひ外遊びを取り入れるべきだと思います。
――子ども達の運動能力の低下が背景としてある中で、体育の授業をどのようにするかを課題として悩んでおられるというお話を、以前ある教育委員会の方からお聞きしました。武藤先生の見解は如何ですか?
「身体教育」の原点に戻るべきでしょうね。小中学校の義務教育の段階で身体教育の理念や考え方をしっかり伝える。45分の授業であれば、技術を指導して達成させることが目的のひとつであって良いけども、例えば、懸垂・逆上がりをするといった時に腕の力がないとダメとか、からだの仕組みと絡めて指導するとか。跳び箱だったら手の力などのポイントを指導し、ダメな例もちゃんと指導する。何故ダメかというと、怪我をすると危ないのはもちろんなんですけど、この方が合理的に跳ぶことが出来るからなど。あとは、「遊び」ですね。ランニングでいうと鬼ごっこの経験がある子とない子では全然違うんです。メンコ遊びはボールを投げるのと全く一緒の動きなので、やっていた子はボールを投げる動作を自然に覚えるんです。つまり子ども時代に遊んでいる子は自然に運動技能・技術を習得しやすいんです。但し、まだ弱いからだでもあり、同じことだけをやり続けるとすぐにへばったりオーバーユースシンドロームを起こすので、そこは色々なことを組み合わせながら、しかも楽しくやらせないと。最初は楽しくやっていたのに最後は苦しくなっちゃう。痛みをきたしたり、場合によっては変形をきたしたり成長障害をきたしてしまう。そこが6歳〜10歳までの極めて重要な指導の中身ですよね。
――何気ない「遊び」ということが、子どもの成長には凄く重要なんですね。
例えば、『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の中に『遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぶ)れせんとや生まれけむ 遊ぶ子供の声きけば わが身さへこそゆるがるれ』という有名な今様があります。子どもが外で遊んでる声が聞こえてきたりするのが楽しいなっていう歌で、大人たちは平安期から子どもが遊んでることは当たり前とポジティブに捉えていました。あと、ブリューゲルという画家はご存知でしょうか?ウィーンの美術史美術館に飾られてある「子どもの遊戯」には91種類の外遊びが描かれています。見てみると殆どが日本の子どもの外遊びに近いんです。つまり、古今東西、社会や大人たちは子どもが外で遊ぶことを奨励し、後押しをして肯定をしていた。 何故かというと、遊びが持っている人間形成力とか、本来のスポーツの力とかは「外遊び」だからなんですよ。
スポーツの原点の言葉はご存知ですか?例えば佐川急便さんのトラックの横にはなにが書いてありますか?昔は飛脚が描かれていた。今は「TRAN’SPORT」と書いてあります。「SPORT」と書いてある。スポーツは、元々古いフランス語で「desport」から来ています。本来の意味を辿っていくと【移す/運ぶ】という意味なんです。真面目にやっていることからその心を移してそこで楽しむこと。【気晴らし/遊び】が本来のスポーツなんです。つまりスポーツの原点は「遊び」なのです。だから子どもの遊びは大事なんです。「transportation」に相通じる言葉なので佐川急便さんは「TRAN’SPORT」にして SPORTを強調されていると思うんですね。そこまで本気で考えて看板を作ったかどうかは分からないですけどね(笑)ネタとしては私はよく使っています。
今、子どもが外で遊んでいると若いママさんたちは”家行って勉強しなさい”と言います。なんで勉強するの?と聞くと”良い学校へ入って、良い職業へ就いてお金持ちになれる”と言うんです。私は 32年間、東京大学の学生を指導してきましたが、良い学校に入った人が全員幸せかというとそうじゃない。全国の各大学で素晴らしい学生が たくさんいるんですよね。偏差値だけで物を語るのは非常に危うい話です。人間として魅力があり、人間として力があるというのが「良い学生」たちなので、それを育てるのがスポーツの力です。私はたくさん遊んだ人は「良い学生」になると思うんですよ。東京大学でずっと指導をしてきて、遊びの足らない人は”あぁ、こいつ遊んだことないなぁ”と思うんです(笑)。
「遊び」は何が良いかというと運動機能を学ぶこともあるけれども、耐えたり我慢することも学べます。自分の思いが通らないこともあるし、ちっちゃい喧嘩もあるわけですよ。それによってミニ社会体験をするわけです。しかも性別・年代の違った集団で遊んでいると、その中に小さい子や障害のある子もいる。そうすると、みんなが面白く遊べるようにみんなでルールを作るわけですね。だからこそ、小学校時代は「遊ばせる」という事ですよ。私なら体育の授業 45分間全部遊ばせてみると思います。遊びは単に運動技能だけではなくて、人間としての形成力もある。なので、それが「本来のスポーツ」であるという認識を持った上で小学校の授業の中でぜひ「外遊び」を取り入れるべきだと思います。ただし遊ばせ方を知っている先生じゃないとダメなんですよ。深い認識がないまま
“どこかの小学校で外遊びをやっているらしいよ、じゃあうちもやろうか”ではなくて、認識をきっちりした上で行動を取る。組体操をやるには”別の学校が 10 段ぐらいでやっていたのがかっこ良いからうちでもやろう”と、一度も指導したことのない人が急にやっても上手くいくわけがない。組体操をやるにはそれなりの準備・技術指導などのやるべきことがあって。なんでこれをやるのか?その理念がないと事故が起こって子どもたちが被害者になる。 なんでこの遊びが必要であるかという認識がないまま授業だけやっても良い効果は得られない。それがスポーツの力のひとつの例でしょうね。
リハビリテーションというのは単に機能訓練をやるだけではなくて、本来の立場や姿などをあるべき状況に戻してあげること。
――現在、所長を務められておられます「東京健康リハビリテーション総合研究所」についてお聞かせください。
「リハビリテーション」という言葉の世界で、最初の事例はジャンヌ・ダルクだって知っていますか?オルレアンの少女。百年戦争の大英雄。フランス軍がイギリス軍を破ってもう勝つかというところで最後は裏切られてしまい、”魔女!悪い女の子だ!”と火炙りにされた。でも 500年経って”良い女の子だった”とローマ教皇は謝ったんです。そしてようやくジャンヌ・ダルクの地位・立場・身分・権利が復権しました。「人間復権」つまりその人の社会的・人間的な立場がようやく回復したのでリハビリテーションの裁判と呼ばれたのです。 それが本来の「リハビリテーション」の原点です。つまり、リハビリテーションというのは単に機能訓練をやるだけではなくて、本来の立場や姿などをあるべき状況に戻してあげること。だからここ(東京健康リハビリテーション総合研究所)の「健康リハビリテーション」という言葉にもそういう意味が込められています。脳卒中とか心臓リハビリテーションとかも、もちろんインクルードしますが、ローカルではなくてあらゆる分野のリハビリテーションを 捉えましょうと定義しています。
やはり、原点を知るって実に面白いし楽しいし大切なんですよ。だからこの雑誌【スポーツの力】も、スポーツの力を論ずるのであれば、本来の「スポーツ」とはなんだ?と、その原点を考えてみては如何ですか?例えば、本来の「スポーツ」に相対する言葉は「アスレティックス」なんです。リドリー・スコット監督の『グラディエーター』という映画に描かれていますが、人間対人間、人間対野獣と戦ったりして、勝てば奴隷が自由に生きる権利を与えられる。負けると殺されるんですね。つまり「アスレティックス」の原点、「競闘」と訳します。からだを使って競い合い、報奨・賞金・賞品を目的にして戦う、これが「アスレティックス」なんです。今のプロスポーツあるいは子どものスポーツの中で、本来の「スポーツ」とは違って「アスレティックス」に近い状況に追いやられている スポーツ選手やスポーツ少年たちがいるじゃないですか。先程お話した「スポーツ」の原点である楽しい・遊び・気晴らしではなくて、報奨金・賞品・メダルなどに追い詰められて戦わなければいけない。最初は本人も望んでいるんだけど、最後は苦しんでしまうみたいなことがある。それは「アスレティックス」に近いんですよ。本来の「スポーツ」と、本来の「アスレティックス」とが混在しているのが「現代スポーツ」だと思うんです。社名も【㈱スポーツノチカラ】になってるし、雑誌のタイトルも【スポーツの力】になっているし。そういう認識の元にスポーツの力を論じていかないとすごく一面的になるようには思います。この社名も面白いですけどね。名は体を表しますし、言葉の意味を知っているとブレないんです。これを機に色々と考えてみては如何でしょう(笑)。
――ありがとうございます。最後に武藤先生が今までの人生で実感した「スポーツの力」をお聞かせください。
人の輪です。私にとってのヒューマンネットワークはスポーツなしでは絶対に語れなかったでしょうね。水泳というスポーツを通して繋がったヒューマンネットワークがあったので、私もそれなりに苦労したり厳しい状況に追い詰められたこともあるけれども、助けてくれる人が出てきたり、もうダメかなぁなんて思ったときにも必ず道が拓かれてきました。それは学閥や職業の分野とかではなく色々な立場の人がいるので、何かのときに助けてくれる。スポーツがご縁で始まったヒューマンネットワークです。過去に、日本武道館に座右の銘を揮毫(きごう)してくれと頼まれたことがあって『人生は縁と運』と書きました。そして繋がったのが比嘉先生で、このインタビューを受けることになりましたし、それがあって今日みなさんに会ってみたら、カメラマンが私の出身校の刈谷高校の後輩だった(笑)。人生は縁と運ですね。
昭和25(1950)年愛知県大府市生まれ。愛知県立刈谷高校卒業。昭和50(1975)年名古屋大学医学部卒業後、東京厚生年金病院整形外科医長を経て、昭和56(1981)年より東京大学教育学部助教授、平成5(1993)年同教授、平成 7(1995)年同大学院教授、平成 21(2009)年 4月より同研究科長・学部長。平成 23(2011)年 4月より東京大学理事・副学長・東京大学政策ビジョン研究センター教授。平成25(2013)年 4月より日体大総合研究所所長等を経て、平成 30年(2018)年 4月より現職。東京大学名誉教授。