芦屋学園サッカーグループ 代表 金相煥(KIM Sang Hwan)

芦屋学園サッカーグループ 代表 金相煥(KIM Sang Hwan)

高校サッカー部のコーチから大学准教授へ、苦難の道のりは自身への使命感と変わる。 大好きなサッカーで、子どもたちを育て、地域貢献を目指す!!

在日韓国人としての苦難の道のりを振り返る

金相煥(KIM Sang Hwan)プロへの道のりと歴史

 高校卒業をむかえる頃、「在日韓国人なので日本でプロの道へ進むのは難しいと思い、韓国の大学へ進学してプロを目指すつもりだったのですが、実際韓国に行くのも困難でした。」結局、日本の大学への進学を決断するのだが、在日韓国人なので様々な問題があったという。「当時は、在日枠というのがあり、他の外国人と同じ扱いでした。どんなに実力があっても規定枠にしばられるのです。そんな現状なので、中学・高校・大学と、常に日本への帰化を勧められました。」日本でサッカーを続けるには、まずこのハードルを越える必要がある。しかし、金相煥のルーツは韓国にあり祖父も健在。家族も日本への帰化はせず韓国名で生きている。「日本では、生きづらいところもたくさんありましたが、通名(日本名)も使わず、実力があれば生きていける。逆境も苦にせず、胸を張り生活していました。今、振り返れば家族を含め、周りの環境が非常に良かったと感じています」

人生に必要な要素、逆境に負けず、ポジティブな反骨心を持つ

サッカーを続けるモチベーションは何か

 「ただ、サッカーが好きだと言う純粋な気持ちとハングリー精神じゃないかと思う。僕みたいな在日韓国人が生きていくには、選択の自由が少なすぎる。教員の免許は持っているけど公務員にはなれない。極端な話ですが”建設業に携わるか焼肉屋さんになる”そんな時代です。安定した職に着くのは至難の技だった時代なのです。松下に在籍中、社員でもいいよと言われましたが、社員になったとしても、絶対に部課長にはなれない。」日本で、好きなサッカーで、プロとしてやっていく。将来どんな困難にあっても、納得のいく仕事は自分で見つけ切り開いていく。このやるせない環境が金相煥の反骨精神を形成していったのです。

二倍三倍の努力は当たり前という教えが、諦めない自分を形成していった

自身を鼓舞する要因

 父から「まず、日本人、韓国人という人種の壁、実力が同じであれば日本人が選ばれるという現実に、平等では無いというのが前提として叩き込まれています。だから人の二倍も三倍も勉強しなさい、仕事しなさい、日本で生きていくためには一緒じゃダメ。サッカーの練習も勉強も。」そのような”親の教え”の中で、諦めない精神が育てられてきたという。「三浦カズさんがデビューし活躍する前までは韓国サッカーは非常に強かった。」自身に流れるコリアンルーツのサッカー魂は金相煥を鼓舞する大きな要因となっている。

「スタートラインは斜めだよ、何でも3の数字で頑張りなさい!!」という母の言葉が忘れられない

影響をうけた人と言葉、心に留め置く銘

 たくさん有りすぎますが、そんな中でも、特に印象的な言葉は「スタートラインは斜めだよ。」と母に言われた事。「何でも3の数字で頑張りなさい。3倍とか3メートル、いつも1じゃダメだよ。」という教育を受けたという。そして、「どんな時も喧嘩腰にならずにいつも頭(こうべ)を垂れなさい。」と。中学のとき先生に殴られた時も、僕は悪くないと母に訴えましたが、それでも「先生に対してはちゃんと礼を尽くし、謝るべきところは謝るべきだ。」と諭された。という。その母の言葉がいちばん心に残っていると回顧する。

競争原理から生まれるもの”変化する”を促したい

学生への指導で気にかけていること

 指導している学生には「常に競争はあるよ。手をつないで仲良くもいいけど必ず競争はある。そんな中からでも立ち上がっていかないといけない。そして、常に成長を意識し、変化しなさい。」と、また毎日”同じ事をやっていてはいけない”“前を向いて変化する勇気”を強調する。

サプライズを呼び込む信頼の絆が”個”を更に成長させてゆく

サッカーを”楽しむ“観点から聞いてみた

 「やはりサッカーの究極の目的、“試合に勝つこと、ゴールを決める事を追求する”これが一番の魅力だと思います。」試合に出られそうにない子にも常に、データを取り戦術に反映させるなど、ピッチの中も外も同じ時間を共有し戦っています。選手・控え・スタッフの共同作業でおこない目標が達成できたとき、”絶対に出来ないと思っていた事”や”逆境を乗り越えた時”のサプライズが”リスペクト”を呼び込んで、人への尊敬の念が湧いて、自分への大きな力になっていくという。 

クラブスポーツの持つ最大の魅力は、教科書を越える実体験の真実にある。

スポーツのチカラを感じる瞬間

 「学生として接していた頃より、ここを巣立ってOBとして会った時に、改めてスポーツをやっていた人は違うな。」と感じる事が多いという。同じ時間をスポーツで共有したからわかる”スポーツ経験で得た信頼関係” サッカーという競技を通して培った”行動力・決断力”は人の深みを増して成長を促している気がするとも。「実は、体育の授業も受け持っていますが、体育の授業とクラブ活動はまた違います。体育の授業には教科書がありますが、部活動には無い。教科書の無いところを僕たちが作っています。」社会生活で必要なマナーや常識、挨拶や掃除などの基本的な事の全てはスポーツ経験を通して教えられるのだと。

コミュニケーション能力を磨くことこそ困難な出来事を解決する常套手段

人間力を醸成させるものは

 「人との出会いや、普段の何気ない会話の中で自分を発見すること。臆病にならずとにかく積極的にコミュニケーションを取ることが大切だ。」という。「まずは相手を受け入れ、考え方を理解して自分の意見も伝える。自分中心にならないよう気に留めておく。スタッフに常々お願いしていることは、横柄な態度や言動は絶対にとらない・しない、頭を垂れて接すること。」ここでも子供の頃の両親の教えが胸に響いていると感じている。

マイナスからのスタート!!決して諦めることなく継続することで変化が生まれ、夢を叶えてくれる

伝えたいこと、メッセージ

「小・中・高とサッカーをやってきて、本当に良き指導者に恵まれたと感じています。プロになった頃は指導者に反発をした事もありましたが、今では自分の指導者人生にも反面教師として生かされています。また、最近は指導者が自身の天職であると実感しています。振り返れば、指導者になった頃に阪神・淡路大震災を経験しました。まさにマイナスからのスタートです。僕の人生はとりあえずマイナスから0までに到達することが先決。だから0を作るのが好きになっているみたいです。とにかく生みの苦しみを克服するのが好きですね」と笑う。「神戸朝鮮高級学校を指導したときも、弱かったチームが県ベスト8レベルまで進み出して面白くなっていきました。姫路獨協大学、芦屋学園もスポーツには縁遠い学校状況でしたが、現在は部員の数も大幅に増加し、優秀な選手も輩出するまでになっています。諦めずに継続していけば必ず結果はついてくる!!それを伝えたいと思います。」

金相煥(KIM Sang Hwan)

ルーツは韓国人ですが、日本の高校を卒業後、東海大学へ。松下電器産業(現パナソニック)のサッカー部(後にガンバ大阪へ移行)に1992年まで所属。J-リーグ開幕時、東芝(現北海道コンサドーレ札幌)、甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)などプロ3〜4チームを渡り、4年半プロとして活動。関西へ戻った1995に阪神・淡路大震災を経験し指導者の道へ。社団法人神戸フットボールクラブで3年、神戸朝鮮高級学校サッカー部の指導を7年、30代前半より姫路獨協大学・昌子監督の下でコーチとして勤務、5年勤務のあと芦屋大学へ。プロサッカー選手からコーチ、大学教授へと一風変わった経歴を持つ。